「自由意志」は「涅槃」を超えるか

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最近、哲学探求も仏教に行き着いており、いろいろ本を読んでいる。

スマナサーラ長老の『苦の見方』、『自分を変える気づきの瞑想法』
魚川祐司氏の『仏教思想のゼロポイント』
酒井雅哉阿闍梨の『一日一生』
名越康文氏の『どうせ死ぬのになぜ生きるのか』
手塚治虫先生の『ブッダ』

中でも、『仏教思想のゼロポイント』と、漫画『ブッダ』は僕の心に深く刺さり、考え方を根本的にひっくり返されんとしているようだ。
この2冊を並行して読むことにより、ゴータマ・ブッダがいかにして生涯を過ごしたのかが分かり、さらにその教えが理路整然と理解できた。
魚川祐司氏はすごい人だ。こんなにも論理的な文章を見たことがない。

ゴータマ・ブッダの教えとは何か。
それは「苦」を滅して最高の楽を得る「涅槃」へと達することだ。

この「涅槃」という言葉、よく聞くけどよく分からない。
僕も、ゼロポイントを読むまでは「ブッダが横になっている姿」という謎の解釈しか持っていなかったが、本を読むことで体系的によく分かった。

「涅槃」という「苦がなくなって最高の楽」である状態になるためには、いくつも実践しなければいけないことがあるらしい。
その中に、「貪欲(欲を貪る心)を滅しなければならない」という教えがある。

貪る心や、欲に執着する心。
これは例えば、金への執着、性欲への執着、生への執着、贅沢への執着などのことを含むのだと思う。
しかし、それが貪欲の対象の全部かといわれれば、現状の私にはよく分からない。
そこには、「夢」とよばれるものは含まれるのだろうか。

例えば、「会社を起こして独立したい」、「大好きなあの人と結婚したい」、「田舎に引っ越してのほほんと暮らしたい」、「世界中を飛び回って旅をしたい」など、一見すると良いことのように思える夢。
フランクルが人間が生きるために選択すべきと説いている、「生きる意味」に十分該当すべきものたちだと思う。

フランクルの思想は「自由意志」だと思っている。
「生きる意味は、生きること自体にあるのではなく、むしろ生きることが我々人間に問いかけてきている。
我々は、それを自由に選択して、人生に対して回答しなければならない。」
という考え方で、僕はそれに共感している。

しかし、おそらくは仏教的にいえば、それは貪欲なのだろう。
なにせ、ゴータマ・ブッダの出家者への教えは、「労働」と「生殖」自体を禁止しているくらいなんだから。

しかし、だ。

『仏教思想のゼロポイント』には、涅槃を達した覚者が、その後どのように俗世(著書の中では物語の世界といわれる)と関わっていくかは、その人次第だと述べられている。

これはつまり、「涅槃に達してもそこからの生き方は自由意志だ」ということだと、僕は解釈した。
また、そもそもにおいて、「苦しみから逃れたい」、「涅槃に達したい」、「解脱したい」というスタート地点ですら、これは自由意志で歩み始めているのである。

ということは、涅槃は涅槃なのだろうけど、その「涅槃を求める生」を選択することは、自由なのではないか。
「苦を受け続けても輪廻を繰り返す生」をあえて選択するという選択肢も、なくはないのだ。

そういう意味で、僕は「涅槃すら欲するかどうかを決定する、個人を決定する何か」の存在があるのではないかと感じる。
それは、おそらくエネルギー体や、自分という精神的な概念のようなもののような気がする。
無理やり名前をつけるなら、それは「魂」と呼べるのではないかと思う。
「”自分”を構成するエネルギーが集まる1点」というような感じだろうか。

しかし、仏教では「無我」が真理であり、その刹那刹那で無常に変化し、業によって輪廻し続けているようなものだと、僕は理解している。
私は「無我」であり、そもそも「私」なんてものはなく、「ただ認知のまとまり」があるだけなのだと。
だが、例え人間の精神はただの「認知のまとまり」だとしても、その「認知のまとまり」をまとまらせているもの、それが「魂」と呼んでもいいのではないかと思う。

「魂」が欲するから「涅槃」に向かっていくのであって、「涅槃」が達せられて「最高の楽」となるのは「自分の魂」なのではないか。(もしくは”心”、”精神”と呼んでもいいだろう)
そういう意味で、魂(心)が欲するところの「自由意志」は「涅槃」を超え、ひいては「宇宙」を超えるのではないかと感じたのだ。

なので、フランクル的に生きて良いのではないか、今はそんな気がしている。


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