「人生を楽しむ」ことを許す

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色んな哲学や生き方みたいな本を読んだが、なんかしっくりきていなかった。

アドラー、本田健、仏教(スマナサーラ長老、酒井雄哉、名越博文)、苫米地、ホリエモン、岡本太郎、瀬戸内寂聴、和田和美、DAIGO、ゲッターズ……
幸福に生きるため、人生を楽しむための様々なメソッドがあり、確かにそうだなと思うこともたくさん書いてあった。

しかし、「なぜ幸福になるのか」、「なぜ楽しむのか」という根本的な問いにぶつかってしまい、毎回自分の哲学作りが破綻してしまう。

思えば、昔から「幸福感」というものを感じて生きてこなかったように思う。
というか、「幸せになること」を自分に許していなかった感じがする。
それが、なぜなのかは分からない。
心理学的に言えば、おそらく「自己肯定感が低い」ことと、「悲観思考」のせいということになるのではないかと思う。

自分を自分で大切にしていなかったのだ。
どこか、苦しむことが美徳で、まだ「夢の達成」をしていない自分が幸せになんてなってはいけないと、潜在意識で思っていたようにも感じる。
はたまた、前世からの「枷」なのか。

哲学系の本や、ネットのライフハック系の記事も、「幸せになりたい」という感情が前提に全てがスタートしている。

しかし、僕はどうやらその根本がずれており、「自分が幸せになること」「人生を楽しむこと」を許していなかった。
なので、どんな「幸せになるための本」を読んでも、「じゃあそれはなんのために幸せになるの?」という問いに行き着いてしまうのだ。
 
 
今の見解では、フランクルの思想が、この問いに対する第一の答えと考えている。
「なぜ生きるのか」、普遍的な答えはなく、「生きていること」そのものが僕らに問いを出しているのであり、それに僕らが答えなきゃいけない、という思想。
つまり、「幸せになりたい」も、「幸せになってはいけない」も、人類共通の正解はなく、個人個人が自分の考えや好き嫌いで、自由意思で選んでいいということだ。

この考え方には、僕は共感している。
人間はまず、ただ生まれて生きている。まず先に「生きている」のだ。
だから、「なぜ生きるのか」の問いはその後にあり、僕らがそれを選択していいのだ。
 
 
では、そのもう一段階上の、「じゃあ僕はどっちを選択するのか?」という第二の問いはどうしようか。

今までは、無意識に、漠然と、「幸せになってはいけない」を選択していた。

だが、そんな僕でも、今の状態は「不足」しており、「心がつらい状態」を実感している。
そして、事実として、色んな本を読んだり、日々生き方を考えている。
それこそが、「心の救い」や「安寧」を求めていることに他ならず、「楽しみたい」ということと同義なのだと気づいた。

そう。実は僕も、魂レベルでは「楽になりたい」「人生を楽しみたい」と思っていたのだ。
これに気づいて、「安心感」のようなものを感じた。

そこに気づいてしまえば、自分の哲学作りは一気に進んだ気がした。

「人生を楽しみたい」という前提に立てば、おおよそ全ての哲学や、考え方の本の内容を使うことができるからだ。
あとは、「楽しむために日々実践していけばいいこと」を、やるだけなのだ。
単純だ。

ということで、根本的な魂の欲求に気づいて、ちょっとだけ楽になったよっていう話しでした。


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