魂があるかないかによる生き方の違い

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最近、死ぬことをよく考える。というか、頭から離れない。

今年で29歳になり、来年は30歳という一つの「壁」を超える。
最近、同棲していた彼女とも別れ、これからの生き方について模索している。
色んな本を読み、日々考えている中で、いつも直面するのは「死」ということだ。

自分が歳をとっていくように、いつか死も訪れる。
もう自分が死ぬことを考えている。
そして、死んであの世にいくときは、この世界で持っている「物」や、「お金」、「地位」、「名誉」は持っていけない。
それらは全て「無」になるのだ。

僕は仏教的な死生観で、人間には魂があり、輪廻転生すると感じている。
今の自分は、前世を過ごした魂がまた生まれ変わり、今生として生きているものだと思っている。
なので、当然、来世もあると思っている。

この、「魂があるかどうか」の考え方によって、生き方に対する考え方は二分すると感じている。

「魂がない」派の人たちは、人間はただの有機物であり、思考はただの電気信号だと考えているんだと思う。
完全な合理主義。
なので、死んだら肉体的な生命活動が停止し、電気信号もただ停止するだけ。
それで終わり。
電気信号が停止したのだから、停止したことすら認識することもなく、ただ終わるだけ。
停止した人間は、有機物として火葬なり土に還るなり、処理されて終わり。
ということなんだろう。
それはそれで、論理的で科学的だとは思う。

だが、そういう人達は、逆にどうやって生きる希望を抱いているのかと思う。
死んだら終わるだけなら、辛い時期に精神的に成長するということも、意味のないことに思ってしまう。
だって、死んだら終わるんだから、成長したってしょうがない。
それでは、人生がうまくいっているときは良いかもしれないけど、うまくいっていないときに、どうやってポジティブなものに変換するのだろう。
ただ、悪いことが起こったときは絶望しかないのだろうか。

僕は肌感覚で、「気」というものであったり、霊的なものを感じるタイプで、「まあ魂もあるだろうな」と思っている。
これは感覚の問題なので、なんともいい難いのだが。

僕のような「魂がある」派の考え方は、辛いことがあっても、精神的に成長するときで、それは結果として「魂を磨く」という風に考えるのではないかと思う。
魂は今生が終わってもずっと続いていくものだから、いくら自分が老いても、いつか死が訪れても、ずっと自分の魂を生涯を通して磨いていくことに、意味を感じられる。
「今生はあんまり良いことなかったけど、辛い中でたくさん生き方や強さを学んだので、来世はそこからスタートできる。そしたら、来世はもっと良いことがあるのではないか」
と思える。
思うというか、感覚としてそう感じる。
あくまで感覚ベースのため、説明には必ずスピリチュアルな考えが前提になってしまうのだが。

魂があるからこそ、辛い時期にも意味があり、絶望の淵でも生きていける。
ソクラテス的にいうと、いつでも「善く生きる」こと。
今が良かろうが悪かろうが、変わらず「善く生きる」ことをし続けられる。
所有物やお金や地位や名誉という「結果」は、死んだらあの世や来世に持ってはいけない。
だが、魂はずっと続いていく。
何を持っているかという人生の「結果」ベースではなく、ずっと続いていく「魂」ベースで生きていけるのではないかと思う。


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